溜まりに溜まった雑記帳を更新する。

もう見返す気はないのだろうし、実際見返したところで得られる効用も微かだろう。思えばなぜ雑記帳とやらを書くようになったのかも今ではよく思い出せなくなってきたところだ。だがなんらかの仕事を醸成しようという非常にざっくばらんとした心掛けが空疎な語りをのさばらせてきたという点は概ね否定すまい。

具体的な構成(プロット)が失われ、書くことに対する気力が散漫たるものになった。ある種の神経衰弱に襲われ、元から不出来だった文章書きについてはおろか、元来不自由なく取り組めたはず数学や自然諸科学の演習にすらろくすっぽに太刀打ちできなくなってきた。ある種のストーリーを構成するということは一つの人間の能力であるはずなのだが、元からできなかったのか、あるいは急にできなくなったのか、どっちなのかは知らないが、とにかくその不能に陥っている。語彙力が低下しているからなのかもしれないとも思う。薬物療法が奏功したためかもしれないとも思う。

看過できないのでどうにかしよう、と思う。しかし、看過してもいいのかもしれないという想念がふいに頭をよぎる。一切の筆を断ち、全てを諦め、最もかわいそうな連中よりも惨めな生活に甘んずるべきなのではないかと思われてくる。それでいいのか。いいと思う。少なくとも、自死を選ばねばならないほどに退っ引きならぬ状況というわけではない。生きられるだけ(もっと具体的に言えば、理解のある人の庇護のもとに生活を送ることができるだけ)で十分だ。確証はないけれど。それ以上のものを求めたいとは思わない。きっと最初からそうした満足が私の前提にあるのだろう。何かを話さないと食っていけないたぐいの人たちほどのハングリー精神もないので、自分の知識や思弁をありたけにひりだして強迫的に何かを喋り通すようなことも、できたら愉快だろうけども、真似をしたいとは思わない。思えない。そして私にはそれが、もっと悪いことに、不必要であるどころか害悪であるとさえ思われてくる。これは僻みだろう。こちら側の手札を全部晒すことがものすごく恥らしいことであり、そして不利益を招くことであるかに思われるから、あえてそうすることに忌避感を覚える。いや、そうであるつもりだが、もとより手札など持っていないのかもしれない。自分だってあの有名なバークリやらカントやらフロイトやらについて一家言のないわけではない。しかしそんなものはちょっと調べて論文をいくつか読んでさえしてみれば誰でも辿り着く類のわらくずであり、そんなものに価値があるとでも思い込むのはよほどの浅学だけである。匿すまでもなく、私が理解しているものは底が知れており全き浅はかだ。全てゴミだ。そのゴミの価値しかないものどもの寄せ集めから、これから先一体何が作れるというのだろう? ないに決まっている。

したがって目標など無意味だ。あるがままにだらだらと漫然に生きる以外にしようがないじゃないか。それ以上の高望みなどしちゃあいけない。

これはシニスムだ。こんなシニスムを平気で吐露するだけの、愚か者になってしまった。いつまでも底辺を彷徨い続けるのを選んだほうがいいのかも知れない。本気でそう思う。なぜって、高い山ほど裾野は広いじゃないか。