文章が書けなくなってから長い時間が経った。今日は雨だった。寒かった。低気圧の影響がひどく、体が動かなかった。云々。事実だけを書き連ねることが習慣化し、それ以上の批評的なトピックについて深く詳述することに対する怠慢があったのだと思う。しかしそうはいっても、自分の意見を表出する技術がなくなっているわけではないはずだという無根拠な過信が私を苛んでやめない。いや違うな、論理的な文章を構成立てて書くことができなくなっているのかもしれない。どっちかというと、前提も結論も前後し精神の揺れ動きに任せたセンテンスを書くことが多くなった。精神の実況中継としての作文。だから話も前後する。突然の飛躍も起こる。なんだ書けるじゃないか。いやそうじゃないんだ。書くことのうまくいかなさを露悪的に愚痴るだけなら誰でもできる。そんなクズのために紙幅を割くことなど、あまりに惨めな話じゃないか。

 しかしそうはいっても、ビジネスの領域で言われるような「文章力」に与する気はほとんどなかった。それをするくらいなら最初から書けないほうがマシだとすら思うくらいだ。全てがパッケージ化されたコミュニケーション。一切の個人的、特異的なエピソードを捨象し、うすのろな連中にも理解されるよう、可読性とあざとさのおしろいをつける。そうして作られた情報記事を享受し、その上を踏み歩いていくのは、どれだけ便利だろう。しかし、便利さに身を委ねるだけ、大事なものを失っている(直説法で書いて何が悪い? なぜって現にそうではないか)。月並みなことを言っても仕方がない。だが、根拠の明確にあるもので、それが衆目で理解されていないものは別だ。私には明確な根拠がある。もっともそれは、誰も彼もが知るところではないのかもしれないが。しかしそうして空疎な妄想にほど近い理論とやらを開陳したところで、何かが得られるのだろうか。私にはそうは思われない。

 最近、何もかもが空疎だ。重みのある言葉が思いつかない。あるとすれば、もうどこでも生活の糧を得る根拠を発見できないということくらいか。いやそれこそが、私の空疎さを作り続けているのだが。延々と生活の無根拠と私の空疎が熱サイクルを生成している。断熱・等温。いたるところで、空疎、浅薄、虚妄。糞だけを産み続けていくうちに死んでいくということがやや確信めいたものに観ぜられる。何も手がつかないまま。そのサイクル。順調である。