若干の部分を精読する。

 ヘーゲルにあって、思想は即自かつ対自的であり、永遠なものである一方、歴史は生成・消滅がありえて、常ならざるものであるが、その永遠なものの歴史を語ることが根本的に可能なのか、というのが彼の最初の設問だった(それが可能であることを示していくのがA章「哲学史の概念」である)。もちろんキリスト教や他の諸科学ですら永遠的であり、にも関わらず歴史を持っているが、それは(少なくともヘーゲルにとって)外面的な事実を叙述したものであるか、内面が描かれた場合にあっても、一貫したドグマに立脚しているものであるか、博学的な仕方で「静かに付加していくだけの行程を展示するもの」であるかのどちらかである。もっともこのヘーゲルの指摘はパラダイムに依拠して具合が良い観測や理論が構築されるという現代の科学史通俗的な態度からは逸しているようにも思われるが、そうしたパラダイムが常に変更される可能性があるという点に、哲学は(通常)科学と明らかな断絶を有しており、ある程度妥当する。哲学史は「常に自分を更新して行く全体の諸変化の光景」を表すという。

 まずもって、哲学史は好事趣味的な思想のカタログ作りに与しない。各々の時代に現れる偶然的な思想はただの「意見=私念 Meinung」であり、そうしたもののリストを作っていく態度は〔意見に対立する〕「真理」の客観性の学問としての哲学の営為に反するどころか、自分たちの知識がたかだか意見でしかない(という気分を催させる)点で、ヘーゲルはそうした「阿呆の画廊 Gallerie von Narrheiten」としての哲学史の観念を退ける*1。また、哲学史はともすると哲学の営為の虚しさを喚起しかねないとヘーゲルはいうが、その各哲学説の相違性は、どの哲学が真の哲学であるかを相対的に評価することに迫られる根拠であるかに見える*2。そこでヘーゲルは逆に「体系の多様性こそ哲学という学問の存在に必然的であるということ」こそ哲学的に本質的だということをはっきりさせる必要があると帰結する。一見するとどこが最初に駁した「阿呆の画廊 Gallerie von Narrheiten」と違うのかと思われるが、そこには「哲学は発展の体系である」ということをおさえる必要がある。そこでヘーゲルは「発展」と「具体的なもの」の概念を導入することになる。

 発展には(論理学的な分析において)「可能性 potentia, δύναμις =即自有」と「現実性 actus, ἐνέργεια =向自有」の二つの状態が区別される。最初に人間は可能性において理性を有する。もっとも、この状態は単に理性の可能性をもつというだけのことなので、理性を持たないのと変わらない。「ところが、こういう人間の即自的なものに彼が目ざめることによってはじめて、従って理性が向自的になることによってはじめて、人間はこの一つの面からして現実性を持つ。現実的に理性的である。」(p.68)現実化する時は、理性が自覚的であることによってのみ成り立つ。人間の理性が理性を対象とすることのない限り〔さらに立ち入って、そこから人間が向自的になることのない限り〕、人間が現実的に理性的であることはない。つまり、自己認識によってはじめて理性は現実性を帯びることになるのであり、そして人間において理性が現実存在するようになるという。

 デカルトのコギトは疑いの余地のあるものを偽とみなして排しても私の実存することを(省略三段論法によって)推論している*3。このコギトで帰結しているのは精神の存在だけであり、しかしそれは直接性を抜きにした精神である。デカルトのコギトに自己認識の構造が含まれていることが知られているようであるが、それがヘーゲルの自己認識と一致するかというと違う。ヘーゲルにあって自己認識は即自的なものを向自的にすることにあたり、デカルトのように自己存在を導くものとしては存しない。つまりヘーゲルの場合は自己存在をあると見做すことはなくても推論すべきものとして措定することはない。それどころか、そもそもヘーゲルの場合は疑いの余地のあるものを偽とみなすことを行う判断が(理性の現実化を経験するまで)起こらない。デカルトヘーゲルの(自己)認識に関する差異はここにあると思われる*4

 ところで、術語自体はアリストテレスやアクィナスの存在論上の区別を引いたものであるが、これもやはり微妙に違う。つまり、アクィナスの場合は時間的には可能性が現実性に先行するが、端的には(simpliciter)逆である。「可能態にあるものは、現実態にあるものを通してでなければ、現実態へと引き出されないからだ quod est in potentia, non reducitur in actum nisi per ens actu.」*5つまり端的には現実態が先であり、その中で一番先んずるのが純粋現実態(purus actus)としての神である*6。そしてそれよりも後に、可能態における質料によって個体化された上で被造物が存在する。云々。というのがアクィナスが神の存在性において論じていたことの骨子であると思う。他方でヘーゲルの場合、可能的なものが現実的なものになるという時間発展を述べているところは同じであるが、存在論の次元で現実的なものが可能的なものに先立つことを述べている箇所は見られない。つまりなんらかの可能性を抜きにした(いかなる述語を持たない)存在自体としての純粋現実性が存在し、そこから個別的なものが質料に合わさって個物の存在性が保証されるという存在論的な議論に、ヘーゲルは与していない。その逆に、ヘーゲルは人間における理性の運動を想定して論述を行う。ヘーゲルにおいてアリストテレスの可能性/現実性の概念対は、人間の自己認識を述べるために用いられており、その対においてあくまで時間的な運動だけを考える。ヘーゲルにとり、自己認識は人間がそれの似姿であるところの神のためではなく、自らの判断のために行う契機に他ならない。

 とはいえ理性が現実存在する過程においても、即自的であることは一貫しているとヘーゲルは指摘する。ではなぜ「この実存へ自分を実現すること」ができるのか。その根拠としてヘーゲルは「萌芽が何時までも即自のままにあることができず、それが即自のままにありながら、しかも即自のままにあってはならないという矛盾であることによって、自分を発展させるという衝動をもつこと」を挙げている*7。いずれにせよ目標は発展の結果たる果実である。ところが精神においては、自分を対象化し再び統一する過程で、まず即自にあるものが精神に対するもの(für den Geist)となって、精神が自覚的(für sich selbst)となる。ここでは結果であるところの精神が主体においてすでにわかっている上で運動が進行する。精神にあって開始と終了は「向他有であり、従ってまた向自有である。自分に対して他者をもつものは他者と同一のものである。ただこうしてのみ、精神は自分の他者の中で自分自身の許にある。」(p.71)是に於て、即自有が(向他有であると同時に)向自有であり、その止揚として自分の許にあること(Beisichsein)が帰結する。

 

【参考文献】

Hegel, G.W.F. 『哲学史序論 哲学と哲学史』, 武市健人訳, 岩波文庫, 1967.

Hegel, G.W.F. Phänomenologie des Geistes. Meiner, 1988. 〔『精神現象学』, 牧野紀之訳, 第二版, 2001〕

ルネ・デカルト, 『省察』, 山田弘明訳, ちくま学芸文庫, 2006.

Aquinas, Thomas. Summa Theologiae. in Thomas de Aquino, Opera omnia

*1:こうした皮相的観念は現代の情勢でも非常に当たるものがある(もっともこのテクストは他ならぬいまについて言っているので当然なのだが)。いたずらに哲学の知識を取り入れることで表層的な理解を得たところで、それは哲学史の知識にはなり得ないし、ヒョッこ出てきた哲学の著述家をすぐに哲学史の枠組みで享受することはできない。ある著述家がどれほどの天才であったとしてもそれが偶然性によるものでしかないかどうか、つまり「時代の子」でしかないかどうかを判断することなしに、哲学史のリストに登記することはできない。そもそもそうして行くうちに哲学の営為からは離れてしまう。要するに、哲学史研究とは単に「思想のフィールドワーク」を指す言葉ではない何かである。

*2:もっともそうした学説の多様性は否定し得ない事実であるが、真理は唯一であり、それを得ようとする理性の意思を否認することはできない。であるなら真の学説を見つけよう!というのが生真面目(nüchtern)な思惟の見解だが、それは食事前にガっつかないのと同じであり、精神の様態に反する。

*3:省察』, pp.43-45.

*4:cf. 『精神現象学』 p.30〔邦訳 100頁〕

*5:ST 1 q.3 a.1 co.

*6:ST 1 q.3 a.2 co.

*7:ヘーゲルによる弁証法の白眉はこのようなところにあるのではないか。即時であって即自でないという矛盾から生ずる裂け目を経験することによって(現実的なものへと)発展するという議論は、単なる同一性への回収という批判を通り越しているようにも思われる。