小康状態なので本を読み始めた。

 こういうものは早い段階で読んでしまうのが良いのだが、だいぶの期間、食指が伸びないでいた。しかし食指が伸びないだけの必然的な理由はなるほどあるらしい。例えばそれは、著者の晦渋な語り口にある。もっとも、その晦渋さの問題は、どのテクストにおいて不可避なことであり、それというのも、テクストの大抵は翻訳という根本的な断絶を介しているからだ、ということができるかもしれない。しかし、翻訳されたテクストを読むにしても、原典を読むにしても、読むという行為は書かれた文章を再び再構築するという過程を踏んでいることに変わりはなく、そこには絶対的な断絶が間違いなく発生する。

 したがって翻訳しようがしまいが、書かれたものを読むという行為、すなわちすでに生成され終わった発達しようのない外的なものを理解し、自らの思想として内面化するという一連の行為をなすことには変わりがない。しかし一切の差異がないわけではなく、そこには相対的な断絶が見られる。翻訳するという行為は書かれたものを読むという行為を分析的に含んでいる。翻訳されたテクストを読むとき、われわれは二重の読みを行うことになる。そこに必然的に意図が混ざり込むこと、したがって読みが引き起こすテキストへのコンタミを、翻訳という行為そのものが避けることはできない——いくら翻訳者がエクスキューズを重ねようしても。その点において、書かれたものを読むという一連の内面化・我有化のレイヤの数において、原典とその翻訳には乗り越えがたい差異がある。したがって、哲学の(邦訳された)テクストは必然的な読解することによる読み落としや誤読、文法の改変、すなわち読解することの暴力を被っていることになる。

 しかしながら、著作者Xの印が本になったからといって、著作者X自身の書いたテキストが世界中に頒布されることが約束されるわけではない。なるほどそのことは著者の思想を(減算することはあったとしても)歪曲することを意味するものではない。しかしそれは、偽りの全体を作る過程であるかもしれない。とりわけ全集を作ることになる場合には、何をどの位置に収録するかによってテクストの意味するところは全く変わってくる。それどころか、テクストの著述者の姿をも全く変えてしまう危険性を併せ持っている。とは言ってもそれは、テクストの発掘が責任を負うている。編纂による屈折は逃れ得ない宿命なのか。

 その一方で、テクストを翻訳するという作業には、その思想をあるいは完璧に歪曲する(その上、避けることのできる)危険性を持っている。すなわちマルクス主義者の翻訳にあっては、マルクス化されたヘーゲルが日本語で鋳造される危険性がありうる。それは自覚的に行われることもあれば、知らず知らずに自らの立脚する意匠に基づいた翻案を行なっていることがある。翻訳は編集という切断作業よりも危険なものであり、哲学者の姿を知らずに歪曲させることが常についてまわる。

 したがって、哲学のテクストを読む際には、翻訳にあたるよりかはむしろ原典にあたるべきなのだろうと思う。もっとも翻訳されたテクストが理解のスタンダードを提供してくれることを否定してはならない。曲がりなりにも翻訳は一定の理解を与えているのであり、それはやがて乗り越えられるべきものであっても(終ぞ乗り越えられないこともあるだろうが)、決して忌避しなければならないものではあるまい。しかし、翻訳の作業には(意味的な断絶を補うことはできても)一定の形態的な断絶が発生していることを無視することもあってはならないだろうと思う。

 とはいえ、そこまでして読まないといけない本がこの世界にどれだけあるだろうか。どれもこれもが「阿呆の画廊」であり、結局何一つとして哲学的空虚を通り抜けず、理性の意思に反して真理に到達することのできないものばかりなのではないかと思う。どうもふさぎこんだ気分を棄てきれない。それは気分の問題なのだろう。生真面目(Nüchternheit)という言葉を諳んじてみる。